中沢新一の「対称性人類学」によれば、対称性の論理にもとづく社会では「勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜き」といったタイプの人々に対し警戒心を抱いていたと記述されている。その人たちは自分が獲得した富を、自分のために蓄積し、自分のためにだけ消費しようとする傾向があったからだ。神話ではこういう人々を貪欲な動物に喩えて、軽蔑する話がたくさんある。そして対称性の社会の倫理は必死にこの「勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜き」たちの出現を抑えようとしてきたが、資本主義の本格的な稼動が準備された12世紀~13世紀の西欧社会では、あらゆる抵抗をはねのけて、蓄積のための生産や交易をめざす「勤勉な」人々の活動が浮上してくるのを、もう誰も抑えられなくなっていたというのだ。本源的蓄積は実際暴力的手段を通じて実行され、贈与経済のもたらす暖かい共同社会に生きてきた人々は自分たちの住んでいた土地から追い立てられたと分析されている。
そしてまた、中沢は西欧哲学の本質は形而上学であると批判してハイデッガーを引き合いに出し、形而上学からの脱却を目指すべきだと主張している。すなわち、人間はたしかに理性的生物であるが、だからといって必然的に形而上学的生物であると決めつけるのはまちがっている。カントが言うように、形而上学はたしかに人間の本性に属しているだろうけれども、そういった本性があまりに支配力を拡大しすぎると別の理性が働いてきたこともまた真実である。人類はこの意味で進歩したのではなく、形而上学の本性を全面的に発達させ始めたにすぎないのではないかと問うているのだ。